野球ファンとして一部の「高校野球ファン」に対して思うこと

甲子園での高校野球交流試合が始まった。こういう大変な時期であるが、何であれ甲子園での試合が催行できたことは非常に良かったと思う。高校野球が日本の野球文化の発展にどれほど寄与したか、本当に計り知れない。様々な意見があるだろうが、春夏の甲子園の大会は今後とも選手たちにとっての憧れの舞台であって欲しいし、それを温かく見守るファンまで含む国民的行事であり続けて欲しいと願う。

ただ、このブログはあまり毒づく場として使いたいわけではないのだが、大会運営者やいわゆる一部の「高校野球ファン」に対しては、いくつか思うところがあり、ここにて吐き出させて頂きたい。

1.「高校生らしさ」というルール外のルール

「高校生らしさ」というルール外のルールは意味不明である。具体的なエピソードを挙げるのは多少憚られるが、1992年夏の大会で、星稜高校松井秀喜選手に対する5打席連続敬遠の後、高野連会長が談話の中で述べた「力を思い切りぶつけ合うのが高校野球という発言がその代表例である。その談話の中では、続けて「高校野球は勝利を目指すものではあるが、すべてに度合いというものがある。今回は度を過ぎている」と述べられているわけだが、ここでいう「度合い」というのは、果たして誰が設けたどういう基準なのだろうか。

また、かつてのカープでは木下富雄さんが名手(?)だった隠し球についても、1965年夏の大会で丸子実業高校が初めて成功させたときは賛否両論となったそうだ。「否」の意見というのは、要は「正々堂々としたプレーではなく、高校生らしくない」という趣旨だったらしいが、当時、王貞治さんが評されたとおり「頭の良いチームにしか出来ないこと」というのが正当な見方なのではないか。

そういえば、2014年夏の大会で東海大四高校の投手が高い山なりのスローカーブを投げたのに対し、某・元フジテレビアナウンサーが「少なくとも、投球術とは呼びたくない。意地でも。こういうことやってると、世の中をなめた少年になって行きそうな気がする」などとツイッターに投稿したことがあったが、この辺になってくると、はっきりいってもはや論外である。

「高校生らしさ」などという言い草をする人たちは、「正々堂々としていない」ないし「卑怯」という言葉の中に、(イ)ルールに違反した行為をあたかもそうでないかのように見せかける行為と、(ロ)ルールの枠内で対戦相手の油断や弱点を突くような行為、の2つを綯交ぜにしていないだろうか。この両者は明らかに異質であり、はっきり峻別すべきである。前者(イ)については「高校生らしくない」というか、たとえ大学生やプロであっても非難されるべき行為であり、むろん、教育上も監督が選手にそうした行為を指示するようなことはあってはならない。一方、後者(ロ)については、それを非難しだすと、対戦型スポーツの本質的部分の否定に繋がるおそれすらある。

2.ジャイアントキリング願望

高校野球は、有り体に言えば優秀な選手が少数の強豪校に集まる傾向があり、チーム(出場校)間の戦力差が大きい。選手個人レベルでみても、時折「超高校級」といわれるスターが現れるなど大きな実力差が認められる。けれど野球には一定の運不運の要素もあったりして、たまに強豪校「じゃない」高校が強豪校を破ることがある。

このように、将来プロに行って大活躍するんじゃないか、という想像するにつけ、わくわくしてしまうようなスターがいるかと思えば、そんなスター選手の集まりやすい強豪校がたまにジャイアントキリングを受けてしまう、という意外性・偶発性があったりして、その辺が「見世物」としての高校野球の醍醐味になっている気がしてならない。

ただ、判官びいきは結構なことだが、強豪校の選手だってアマチュアの高校生であることを忘れてはならないと思う。

2007年夏の大会では、マスコミが総出で「がばい旋風」を煽っていた印象があり、そのおかげか甲子園での決勝戦の応援も佐賀北高校一色みたいになっていたのは、いくらなんでも広陵高校に気の毒に感じられた。試合後、広陵高校の監督が異例の言及をしていたとおり、審判の判定も球場の雰囲気に影響されてしまった感が否めないと思う。また、このときの誤審疑惑に対する高野連の「審判の判断は絶対です」という回答には、そもそも審判制度というのが、真実性の確保が難しいからやむなく便宜的に権威を持つ者の判断に下駄を預けているに過ぎないものなのに、いつしか権威の所在と絶対的な真実性とを無根拠に同一化してしまっている、という論理の倒錯を感じてしまう。こういうキハナな回答振りを平気で続けているようだと、ビデオ判定やAIによる判定技術が進展するにつれ、やがて審判の存在意義を自ら葬り去る帰結しかみえてこない。

スポーツは筋書きがないドラマといわれることがあるが、ファンやマスコミが予め筋書きを作るようだとスポーツとしての感動が薄れてしまう。

3.「野球留学」批判

大阪府や神奈川県など激戦区の都道府県から、出場校数の少ない県の高校に入学する「野球留学」を批判する人がたまにいるが、これにも違和感を覚える。

思うに「野球留学」批判は多くの場合、広く学校スポーツの過熱に対する懸念に根差している気がしていて、そのこと自体は分からないわけではない。人気スポーツの大会で勝つと一気に注目度が上がるだけに、特に私立学校では生徒勧誘が熱を帯びるばかりだ。ただ、学校と人気スポーツとを本当に切り離そうとすると、サッカーでみられているようにプロがユースを組成し校外活動化していくしかなく、理屈においてはあり得る選択肢の一つだと思うが、影響が相当に大きい話になってしまう。

ここでは、もう少し局所的な話として、学校スポーツ文化を前提としつつも、県外校への進学を特に取り立てて問題視するのはやめて欲しい、という旨を述べておきたい。まずもって「○○県代表は郷里出身者の代表であるべき」という言い草は、学校単位で代表校を決める仕組みになっている以上、言いっこなしにすべきだ。もとより高校が県外の生徒を募集するのは自由だし、県外の生徒が入学するのも自由だ。野球の修練を自己実現の道と位置付けるのは個人の立派な判断だし、高校から親元を離れるのも、自立心の涵養など教育的メリットもあるわけで、当事者でない人が越境進学を規範的観点から批判するのは当たらないと思う(因みに、かくいう筆者も野球ではないが高校から親元を離れ他県に進学している)。

4.投手依存信仰

わが国において、野球の勝敗に占める投手力の重要性が過度に主張されるもとは、高校野球におけるエース投手への過度な依存にあるように思えてならない。実際、セイバーメトリクス上、高校野球において勝敗に与える影響は打撃力、守備力、投手力の順に大きいとの学術的分析もあるし、大会の優勝校を振り返ってみると、やはり打撃力の高いチームが多いと思う。

それでは何故、日本人の感覚として投手力への偏重意識が強いのかについては、正直、よく分からないが、投手力をエース1人に依存する体制に影響されている可能性があるのではないか。投手が一人しかいない前提であれば、確かに試合の勝敗への寄与度はその選手が最も大きくなるだろう。信頼できるエースがいることが素晴らしいことだ。ただ、エースは責任感からマウンドに上がり続けたがり、監督はエースへの信頼感と、彼のエースとしての矜持を守ってあげたい思いからマウンドに送り続けたがる。エースへの過度な依存が自己循環的に高められているような気がしてならない。

後で述べるとおり、エース投手への過度な依存は、今後の大会運営のあり方を考えていく上でも大きな影を差す問題となっているように思えてならない。

5.送りバント信仰

高校野球においては、ノーアウト1塁の場面になるとかなりの確率で送りバントを仕掛けてくる。常葉菊川高校がバントをしない作戦をとるとそのことがニュースになるほどである。ただ、ノーアウト1塁からの送りバントがあまり効率的でないことはセイバーメトリクス的には証明済であり、それを知らない監督もほぼいないはずなのに、バントをさせたがる癖はなかなか治らない。

その理由として、このブログでは以前、強硬策の方が生還率が高い理由として、監督が、味方チームの行動については予見可能性を高めに見積もる半面、相手チームによる四死球や失策の可能性を織り込まない帰結なのではないか、との仮説を立ててみた。
合理的に考え抜いた上での作戦なのであればいうこともないが、もし監督が「ともすれば奇特な作戦でもある強硬策で無得点に終わった場合には自分の作戦ミスであるが、定石であるバント作戦の挙句無得点に終わったのであれば仕方なし」という類のリスク回避行動を選択しているのだとすると、ちょっと残念な気がしてしまう。

6.昔ながらの大会運営への固執

最後に、伝統を守ることは大事であるが、昔と比べ野球の質や環境が変化してきている中、それに対応して大会運営のあり方も柔軟に見直していく姿勢が重要だと考える。そのことは、一見、伝統の破壊のようにみえるが、実は高校野球の伝統を守っていくためにも必要なことだと思う。

例えば、炎天下の甲子園での連戦をよしとするのは、このところ「猛暑」化が進み、夏場の気温が一段と高くなっている事実に目を瞑っていないだろうか。

また、(プロ野球に関し以前の記事でみたのと同様に)打者のパワーが向上し、インプレー打球が安打になる確率が高まってきている中、投手にとってアウトカウントを稼ぐ上で奪三振の重要性が高まってきている可能性はないだろうか。もしそうだとすると、同じ9回を抑えるのでも、昔に比べ多くの球数を要することになりがちだ。それと猛暑化が相まって、投手に対する負担は以前にも増して高まってきているといえるだろう。

時々、懐古主義的に「昔の投手は毎日何百球も投げ込みをやってスタミナをつけ、全試合を馬力で投げぬいていたものだ」などという向きもあるが、上述のとおり、長い年数のうちに野球の質や環境は大きく変化しているわけで、必ずしも昔の話が現在に当てはまるわけではない。それに、ここで念頭に置かれる「昔の投手」にはサバイバーズ・バイアスがかかっていて、実際には我々が知らないだけで、どこかで肩を壊しひっそりと選手生命を終えた人が少なくないはずだ。

といいつつ、どのように変革していくにせよコスト面や日程面など様々な制約に直面する。緩いだのザルだのという批判を受けながらもどうにか導入に漕ぎ着けられた「1週間500球」という球数制限も、きっと難渋した挙句の結論なのだろう。確かに、球数制限をいきなり極端に厳しくすると参加校の裾野を狭める要因になりかねないため、漸進的なアプローチをとろうとする立場は理解できなくないところだ。

この問題の難点の一つは、あからさまには言い難いが、高校間での実力差がはっきりしている中、1~2回戦までで敗退するであろう学校と強豪校との間で事情が異なることだ。部員数の多い強豪校では、打者のパワー向上に対抗するため、放っておいても投手の複数化を進めていくに違いない。一方、失礼な言い方になるが、部員数を揃えることに窮しているような弱小校については、投手が何試合も投げさせられる展開になりにくいので、厳格過ぎる球数制約を押しつけ、大会への参加自体を困難化させるのもどうかと思う。大半の参加校はその両者の中間に位置すると思われるところ、ひとまずは「1週間500球」を実施してみて、様子をみながら落としどころを模索していくのが現実的な気がする。

その上であえて勝手な提言をするならば、まず投手への負荷が以前にも増して重たくなっている要因を探ることが重要だと考える。その要因が上述の仮説のとおり、打者のパワー向上に伴う奪三振重要性の高まりにあるのだとすると、打球の反発力を高めている金属バットの使用取り止めが俎上に上ってこないだろうか。木製バットへの移行はコスト面の問題を伴うが、小規模な野球部に対していきなり複数の投手を揃えるよう求めるよりかはハードルが低いはずだ。

また、日程面については、様々な制約要因があるのだろうが、可能な限り試合日程の分散化を図っていくことも重要だと思う。甲子園大会については、例えば、せめて初戦と決勝戦だけは甲子園でやるのだとしても、それ以外の日程の一部は猛暑と無縁の大阪ドームで執り行う、といった案などが考えられるかもしれない。

様々な制約に直面するもとで急な変革が難しい事情は理解できるにせよ、最低限「風物詩としての雰囲気を守りたいため、できるだけ現状維持で」といった意見だけはオールドファンのエゴのように思う。