たまには脱線:映画の感想(三島由紀夫と東大全共闘)

カープがなかなか勝てないと、つい現実逃避をしたくなり(ブログを書いている時点で既に現実逃避しているわけだが)、野球とは無関係の話題を書いてみたくなった。

極めて唐突であるが、標題の映画の感想をば。

・三島と全共闘は、実践を伴わない知識主義へのアンチテーゼ、あるいは米国従属的な保守層へのアンチテーゼ、に根差した「体制変革」の必要性を訴えている点において、実は共通している。しかしながら、体制変革の軸として、①日本人が歴史的に形成してきた共通意識に回帰させるべきなのか、それとも②あらゆる既成の価値観は所詮人為的なものに過ぎず、それらを破壊し原始共産の原点に立ち戻るべきなのか、という価値観において相容れない。

・三島にとって「実践を伴わない知識主義」に対するアンチテーゼの論理的帰結は、自決の覚悟をもって暴力を含む行動に出るということになり、全共闘の学生に対し、それだけの覚悟があるのかと問うている。

・劇中の討論をみる限り、全共闘の学生がこうした覚悟を表明しきれず、それを「時間意識」のレトリックによって誤魔化そうとしている様子が喝破されている分、ディベートとしては、三島の方に分があるのではないかと。ただし、この三島の論理的優位性は、彼自身が「覚悟」を持っていることによって担保されている。

・といいつつ、全共闘側は、三島の人間性に対する揶揄という点では相応に成功している。三島には、戦中に思春期を迎えたという世代的屈折が感じられ、彼の内面には、様々な二面的ないしアンビバレントな要素が含まれているように見受けられる。例えば、平野啓一郎さんが論評しているように、三島は全共闘の「時間意識」を批判しつつ、自身の小説はいずれも刹那的で、苦節何年みたいな時間軸を感じさせるものがないじゃないか、とか。あるいは、「人間天皇」としての昭和天皇を批判しつつ、大学の卒業式で昭和天皇から銀時計を賜った思い出を自慢げに語ったり、とか。全共闘側は、こうした「討論会での論旨と小説との不一致性」を見事についている。

・しかし、実は、全共闘の側にも表裏があって、彼らの本音は表看板に掲げる「弱者救済・平等主義」などではなく「自分は特権ではなく知性をもっているからエリートなのだ」というエリート主義の発露にほかならず、かつ「反米だけど、かといって戦前回帰的な前世代とは違う」という自意識の表れなのではないかと。
ただ、全共闘のロジックのある種の強みは、こうした二面性の矛盾を「時間意識」のレトリックの中で自己正当化できる点であり、劇中で生き残り組が「全共闘運動は失敗ではなく発散しただけ」とか「自分が他から影響されることなく活動していることが失敗でないことの証左」とか、まるで成仏しきれないような言い草を連ねているのは、そうしたレトリックの行き着く先ということか。

・映画の主題は討論の内容ではなく三島の人間性にあり、既に世界的作家となっていた三島が、あえて敵対的姿勢を持つ学生多数との、しかも「敵地」(全共闘の支配する駒場900番講堂)での討論に応じ、論破・攻撃ではなく、ユーモアを交えながら共通点と相違点をあくまで論理的に明確化しようとする姿勢は、映画全体を通じ敬意をもって表現されていたと思う。

映画の中身とはずれるが、幕末の吉田松陰も実践を伴う知性を訴え、塾生にも自身にも覚悟を求めていった帰結は自身の破滅であり、革命思想とはそういうもの、ということなのかもしれないが、何だか頭が良すぎるのも切ない気がしてくる。