「麒麟がくる」に思う「移動」(中国大返し?)の負担

いつもの本題から逸れるが、NHK大河ドラマ麒麟がくる」がいよいよ佳境に差し掛かっている。このドラマは駆け出しから濃姫役の差し替えがあり、撮影・放送日程が新型コロナに邪魔をされ・・、と苦難続きだった印象もあるが、非常に面白い。特に織田信長の描き方が斬新だ。母親からの愛情不足が原因で自己承認欲求が異常に強く、それが充足されていないと思うことにより、孤独感や他者に対する猜疑心をどんどん高め、ついに「殺してしまえホトトギス」となってしまう――。こういう図式は、旧来からの「短気な革命児」という人物設定よりリアルに思える。

残りの放送回でいよいよ本能寺の変・山崎の合戦が描かれるはずだが、この辺りの経緯については、日本史上指折りの謎を含んでいる。明智光秀が何故クーデターを起こしたのか、という論点についてはドラマを楽しみにするとして、本記事では、兵員の移動というロジスティクスに着目し、豊臣秀吉が「中国大返し」という驚愕の「移動」をどうやって成功させたのかについて、無責任気ままな推論を述べ、最後に強引ながら本ブログの本題に引きつけて、カープのシーズン中の「移動」について少し触れることにしたい。

中国大返し」が謎めいている理由

歴史ファンが「中国大返し」を奇妙だと思うのには十分過ぎるくらいの理由がある。まずもって、本能寺の変の急報に接した羽柴(豊臣)秀吉がなぜ即日で手際よく、毛利方との和睦をまとめることができたのだろうか。また、ひょっと急報が誤りであった場合、敵方と勝手に和平合意して本国に引き返すなど、切腹ものの反逆行為(戦線離脱)なわけで、「速報ベースの情報」からにわかに絶対的確信を持てたのは何故だろうか。そもそも、事変の翌日に秀吉の耳に第一報が届くなんて、速過ぎやしないだろうか。さらに、二万ともいわれる大軍を、ものの一週間で200キロも移動させることは本当に可能なのだろうか。

特に最後の点については、播田安弘氏の「日本史サイエンス」でしっかり分析が行われていて興味深い。いわく1日30キロもの行軍は練度の高い自衛隊でも限度いっぱいという歩行距離であり、それを1週間以上続けることは非現実的である。自衛隊に比べても当時の武士の装具は劣悪だったろうし、特に当時は梅雨時であり、野営による負担が重たかったに違いない。加えて、必要な食糧や輸送馬が膨大となるため、手配を行き届かせることも容易でない。以上を踏まえると、事前の入念な準備なしに「中国大返し」は無理だったのではないか、とのことだ。

中国大返しには入念な事前準備があったはずだ」といわれると、さも秀吉が本能寺の変の黒幕だったのではないか、とか、それより控えめにいっても、秀吉は光秀のクーデターの意図を事前に把握していた(にもかかわらず主君に報告せず、光秀のなすがままにさせた)のではないか、というコンスピラシーを想起してしまうが、氏の分析はそこまでで寸止めし、黒幕説云々については歴史家の研究に委ねるとされている。

無責任気ままな推論

実は筆者は「中国大返し」の謎について、以前から次のような推論を思い描いており、所詮素人の妄想話に過ぎないのだが、ここに紹介させて頂く。

・秀吉は、毛利攻めへの援軍として、信長自身の出陣を要請していた。また、本能寺の変は、信長がこの要請に応え、安土城を出て中国方面に出陣する途上、京都逗留中に発生した。また、信長は光秀に対し秀吉の援軍として中国地方への出陣を命じていた。本能寺で信長を襲った明智勢は当初、中国地方に行くものとして出陣した(=ここまでは通説のとおり)。

・ただ、実のところ軍事的には、秀吉は信長自身の出陣を要しない程度にまで有利に戦局を進めており、あらかた勝利を固めた上で、信長がきたところで和議を成立させる段取りだったと推測する。実際、上杉謙信の死去(1579年)後、宇喜田直家(岡山)や南条元続(鳥取)が織田方に寝返り、山陰の拠点・鳥取城も苛烈な兵糧攻めに落ち、毛利方は本能寺の変(1582年)までに、とっくに劣勢に追いやられていたとみられる。

秀吉の真の狙いは、毛利攻めの兵力増強ではなく、戦功を信長の面前でアピールするとともに、行き帰り(特に帰り)の播磨路――大半が秀吉の領地・勢力圏――を信長への「接待旅」とする点にあったのではなかろうか。「接待旅なんてあり得るのか?」という点については、これと同じ年、徳川家康駿河拝領の御礼として「富士山見物の旅」を企画した実績があり、秀吉がそれに倣ったとしても不思議ではない。

なお、信長が光秀に出兵を命じていたのは、秀吉が「優勢ながら、もう一押しが必要な状況」などと割り引いた戦況報告を行い、信長に信じさせていたからであり、光秀も「割り引かれた」報告どおりの戦況と思い込まされていた。もし光秀が素直に援軍となっていたなら、壮大な無駄足を踏まされたことになり、それをさせる秀吉はかなり腹黒い、ということになる。

秀吉は、接待を疎漏なく行うため、備中高松城から播磨までの宿や食糧の手配、ひいては帰路では鎧を脱げるよう武具を運ぶ輸送船の確保などを進めていたと考える。「毛利攻めの戦時下に接待準備などする余裕があったのか」という点については、備中高松城を水浸しにした後1か月程度にわたり目立った戦闘を要しなかったため、不可能な話ではなかったと想像する。

・また、疎漏のない接待を行う上で、信長の動静は超重要情報であり、秀吉はそうした観点から予め入念な哨戒網を張っていたのではないか。きっと何人かの信頼に足る斥候・伝令をリレーさせ、迅速に情報が届く体制を構築していたのだろう。

・以上の想像どおりだとすると、本能寺の変の事実について、秀吉はこの哨戒網のおかげで確度の高い情報を速やかに、かつ正確に得ることができた。また、「中国大返し」ルートの宿や食糧確保についても、当初、接待目的で準備してきたものを流用することができた。一方、光秀の側では、中国地方の秀吉がなお予断を許さない戦況にあると認識していたため、よもや万全なロジスティクスが構築されていたなど思いもよらなかっただろう。

秀吉は、信長参陣を前に毛利方と既にあらかたの講和条件を握っていて、毛利方の交渉官(安国寺恵瓊)に対し「近日中に」信長の了承が得られ次第成立させると言い含めていたと想像する。毛利方からは信長陣営内での了承プロセスまでは見えないので、本能寺の変の事実を伏せて「ようやく信長の了承がとれた」と嘘をついても俄かに看破されることはなく、違和感なく和議成立と相成ったのではないか。そしてもとより和議成立後はお互いに撤兵する約束でもあったので、秀吉軍が畿内に引き返していくのも不自然ではなかった。

・ただし、そうだとしても二万もの総兵力をたった一週間で京都に参集させることは困難であり、秀吉自身、当面、旗印である自身さえ先頭に立てれば十分と考えていたのではないか。山崎の合戦の主力は、毛利攻めの際に播磨に残してきた守備兵と、あとは中川清秀高山右近らの畿内大名だった。

・・・以上、史料に基づく論拠はないのだが、そう考えると上記の「謎」をすべて整合的に説明できる。

確かに上記の「謎」説きのために生まれた「秀吉黒幕説」も面白いのだが、それだと別の不自然さが生じてしまう。第一、秀吉が光秀にクーデターを教唆したのだとすると、光秀はクーデター成功後、秀吉との連携作業であることを宣伝するだろうし、秀吉にもクーデター成功の連絡を寄越すのが自然と思えるところ、恐らくそうした記録は存在しない。それに「クーデターの教唆」は秀吉にとってリスクの大き過ぎる行動であり――未然に光秀が裏切って信長に密告するリスク、クーデター失敗後に秀吉自身が共犯を疑われるリスク等――、あまり合理的選択とは思えない。

なお、「日本史サイエンス」では畿内大名に頼って明智光秀と対峙する作戦は、秀吉にとって手紙を送れど味方になってもらえないおそれがあるため、事前に「何かあったときは宜しく」という申し合わせでもしていない限り、ハイリスク戦略だったと指摘している。これも「秀吉黒幕説」の暗喩なのかもしれないが、ただ、この点については、秀吉は案外自信を持っていたのではないかと想像する。理由は幾つかあり、第一に、畿内大名にとって「光秀がクーデターを企てた」ことまでは確信を持てても、本当に信長が死んだ確証がなかったため、光秀への加担にはリスクを伴ったこと。現に秀吉は中川清秀に「信長は生きている」と虚偽情報を流している。第二に、秀吉が毛利攻めに動員した兵力数は光秀の動員可能な兵力を上回っていたこと。そのうちどの程度の割合が播磨に戻ってきているかなんて外目には分からないはずで、カタログスペックとしての兵力数は、それ自体、ものをいったはずだ。第三に、なんだかんだといって「主殺しは不道徳」という観念は当時からあったこと。「敵討ち」という大義は訴求力が高かったに違いない。加えて、秀吉は、かねがね織田家中で光秀の追い落とし工作(権力闘争)を進めてきた中で、細川藤孝筒井順慶の光秀からの離反について感触を得られていたのかもしれない。これらを踏まえると、このときの秀吉は、少なくとも、関ヶ原の戦いに際して「加勢要請の手紙合戦」を石田三成と競ったときの家康よりかは、味方集めに有利な状況にあったのではないか。

それに、秀吉の地位はもっぱら信長の引き立てによるものだったので、光秀政権であっても柴田勝家政権であっても秀吉はつまはじきにされた可能性が高く、ゆえに秀吉は積極的にリスクをとれる、ないしとらざるを得ない状況に置かれていたとも考えられる。

交通手段の整備による「移動」負担の軽減

いずれにせよ、このように交通手段が未発達な時代においては、特に大人数での長距離移動には相当の日数と、日数分の食糧費・宿泊費を含む膨大なコストを伴うことを改めて実感する。豊臣秀吉は、戦場での作戦立案や指揮能力というより、土木工事やこの手のロジスティクスが得意技だったのではないかという印象がある。その後の賤ヶ岳の戦いもそうだが、どの程度の兵力をどの程度の時間数でどこまで動かせるか、という勘の鋭さは秀吉の真骨頂であり、こうしたスキルは、低い身分から戦争「実務」を蓄積してきたからこそ発揮し得たのだろうか。

そもそも織田家は家臣団の城下集住を進めるなど、国衆や地侍への支配力を強化しており、このことが軍団の動員力・機動性の高さに繋がった可能性がある。やや後日談風になるが、備中高松城攻め後の和議は暫定で、後日の正式な講和締結にあたって安国寺恵瓊は、主君・毛利輝元に機動力・動員力や財力の高さにおける彼我の差を訴え、受諾を迫ったと伝わる。毛利家は「三本の矢」というと聞こえが良いが、要するに国衆や外様へのグリップが弱かったとみられる。よく「毛利勢はなぜ中国大返しをした秀吉を追撃しなかったのか」という人もいるが、一つには、毛利家内での合意形成に手間暇を要し、機動的な追撃戦の企画が困難だった可能性が考えられる。中世秩序からの脱却度合いが軍事面でのロジスティクス能力の差として現れ、それが雌雄を分けたということか。

といいつつ、もう少し時代が下っても、人員の長距離「移動」は悩みの種であり続けたようだ。江戸時代の参勤交代も片道10~20日程度を要し、各藩の財政を圧迫したという。幕府に報告した江戸への到着予定日を遵守する必要性に加え、経費抑制の観点から、旅程の計画と管理は藩官僚の主要業務であったとされる。

そうやってみると、交通網の発達した現代はとても便利だ。今日の日本であれば、たとえ二万人規模であっても岡山~京都間の移動は造作ないことだ。敢えて真面目に計算すると、新幹線(16両車両)の乗客定員は1,300人強であるため、朝6時発の始発から15便ほど――のぞみ号の発車頻度はおよそ20分に一本程度なので11時頃まで――借り切れば、正午過ぎまでにはあっけなく全員が京都駅に到着できてしまう。

ただ、さすがにここまで便利になってきたのは比較的最近の話であり、たった一世代前まで遡れば、列島の東から西までの移動は一日仕事だったことを振り返ると、技術進歩の速さを再認識するばかりだ。

広島~東京間の所要時間の変化とカープのシーズン中の移動距離

ここから話を急転回し、本ブログの本題に寄せると、かつてのカープの関東遠征は、選手たちにとって現代以上の心身疲労を伴っていただろうし、球団にとっても「中国大返し」並みとはいわないにせよ、大きな事務負担であったに違いない。

JTBの歴代の時刻表を基に、鉄道による東京~広島間の所要時間の推移をみてみよう(因みに、JTBの歴代の時刻表は、同社の運営する「旅の図書館」で調査した)。

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鉄道による東京~広島間の所要時間推移

新幹線開業までは、戦後15年を経過した1960年でも、東京駅を朝9時発の特急つばめ号(東京~大阪間8時間)に乗っても、大阪駅での乗換を要したため、広島駅に到着するのは日付が変わった後となってしまう(その後、つばめ号は延伸され、新幹線開通前夜には20時10分には到着できるようになったが、それでも11時間超の長旅であった)。シーズン中の試合のない日のことを今でも「移動日」というが、この時代の「移動日」は本当に移動で日中をすべて使い果たしていたことが分かる。

新幹線の開業(1964年)により、開通区間の東京~新大阪は4時間で行き来できるようになったが、新大阪~広島間は在来線への乗り換えを要したため、乗り換えのための待ち時間まで含めると、東京~広島間の移動には8時間弱をみる必要があったようだ。

1972年に新幹線が岡山まで、75年に広島まで延伸され、東京~広島間の所要時間は5時間程度にまで短縮化された。因みに広島にとって1975年は、東京までの距離が縮まった年であると同時に、カープが初優勝した年でもある。

セ・リーグは球団が首都圏に3球団が集まっていることもあり、その中では西端に所在するカープの移動距離は長い球団創設年の1950年は、交通事情も悪かったであろう中、2リーグ制導入初年の地方営業(北海道や東北、北陸、北関東など)もあり、総移動距離約27,100キロ初優勝年の1975年は、日本復帰間もない那覇への遠征を含め約28,100キロカープは、球団創設以来現代にいたるまでずっとシーズンを通じて地球半周分以上の移動を宿命づけられてきたことが分かる。

このようにみていくと、中国新聞カープ70年史の特集記事の中で、外木場義郎さんが「(東京から)岡山までだった新幹線が、広島までつながったでしょ。ものすごく楽になった。あの年から野球道具を自分で運ばなくてもよくなった。あれがなければ、優勝はありえませんよ」と述懐されているのも、頷けてしまう。

おわりに

長距離の移動はいつの時代も心身の負担なのだろうが、中世の歴史的事件をみながら、当時から昭和の技術進歩・交通網整備に至るまで思いをはせてみた。豊臣秀吉ロジスティクス構築能力は天才的だが、カープをはじめとする各球団のスタッフも移動を含む球団運営に苦労されているだろうし、特にコロナ禍の昨今は苦労が倍加しているのではないかと思う。

どうにか無事のキャンプイン~開幕に漕ぎ着け、どうにか円滑にシーズンが回っていくことを祈り、筆を置きたい。